政治的判断とは、とても便利な言葉の様です。政治判断の裏には様々な要因が覆い隠されて、どの様に歩き出すかわかりません。今までの現政権由来の出来事が、政治判断で処理されてきたのではないかと思います。現時点までの事実としてのデーターや分析、専門的考え、学校現場の考え、官僚の考え、を飛び越え、多分、現政権の閣僚の頭を飛び越えてなされた政治的判断の様です。
昔、満鉄調査部が日米開戦を否としたレポートが、無視されたか握りつぶされたかしたようですが、これも政治的判断によるものと違うのでしょうか。
参考として
2/28(金) 13:33在英国際ジャーナリスト木村正人氏寄稿のyahooニュース
「新型肺炎「日本は感染症と公衆衛生のリテラシーを高めよう」免疫学の大家がPCR論争に苦言」のなかで、
「英首相官邸筋に「新型コロナウイルス対策を教えて」「ロンドンに東京五輪を代替開催する準備はあるの」「イタリア便はどうするの」と尋ねても「科学や医学に従って計画を実行に移すだけで政治や官僚がうんぬんする余地はない」という答えが返ってきます。」
とありました。
ある条件下では政治的判断を避けるというシステムが確立されなければ、ならないと思います。今回の政治的判断が、結果として正しくあっても、間違えであっても、無批判に許容すべきではないと考えます。
無批判に許容してしまえば、どんな政治的判断でも、閣議決定で正当化されてしまいかねません。今回の子供のためにと言う政治的判断は、この政権の緩やかな独裁化を完全独裁政権として完成に向かわせるための手段になりかねないと危惧します。